テキストの量と学力は必ずしも比例しない!

学費が高い予備校は、テキストの分量がとても多いです。

充実しています。

この膨大な量を消化すれば、そう、きちんと理解し血肉としアウトプットが出来るれば、医学部には合格する可能性が格段に高まることでしょう。

しかし、果たして何人の生徒が、膨大な量の教材の中身を隅から隅まで消化できるのでしょうか?

目の前に積まれた、あまりに多い分量のノルマに、途中で心が折れる人が大半なのでは?

医進館の場合は、テキストの量は、そのような高額予備校と比較すれば「えっ?!」と驚くくらい少なく感じるかもしれません。

もちろん、授業で使用するテキストのほか、自習用の補強仮題としての教材も提示しますが、それを足してもおそらくはそれほどの分量ではないのではないかと思います。

本当に、これだけで合格するんですか?

そう訪ねてくる生徒もいます。
前年まで、そのようなテキストの量が多い予備校に通っていたタイプの生徒は。

しかし、じゃあ君「これだけ」の量でも消化できますか?
きちんと血肉化させることは出来るのですか?

……となると、ほとんどの生徒は最初は張り切るものの、なかなか一筋縄ではいかないことに気付き始めます。

同じような話が山口真由・著の『天才とは努力を続けられる人のことであり、それには方法論がある』という本にも記されてします。

司法試験合格を目指して法律学校に通ったある人が、最初に通った予備校はテキストがたくさんあるところだったそうなのですが、そこで1年勉強したのですが、不合格でした。

翌年通ったところは、前年通っていたところに比べると、テキストの冊数がものすごく少なかった。
最初は不安だったそうですが、その予備校の指導を信じて少ない分量のテキストを何度も何度も読み込み学習したところ司法試験に合格したところです。

この話からも分かるとおり、テキストがたくさん「ある」ことと、テキストの内容を「血肉化する」ということとは天と地ほどの隔たりがあるということです。

たしかに、立派なテキストがたくさんあれば、それだけで半分合格したような気分になるかもしれません。

しかしテキストを作り用意するのは、あくまで予備校。
それをモノにするかしないのかは、生徒本人の熱意と努力なのです。

「積ん読」という言葉がありますよね?
本を買って、読まずに積んで、賢くなったような気分になること。
これと似ています。

合格するかもしれないというワクワクした気分も大切だとは思います。しかし、それは、宝くじ売り場に並ぶ人たちの「もしかしたら当たるかもしれない、当たったらあれを買おう、これも買おう、借金も返せる」といったワクワク感と何ら変わるところはありません。

合格するかもしれないという「気分」と、「実際に合格すること」とでは、まったく違います。

気分は学費、テキスト代というお金で買えるかもしれませんが、合格は努力でしか得ることができないのです。

学費と学力は必ずしも比例しませんし、テキストの種類と合格率も必ずしもリンクするものではないということを覚えておきましょう。